2026年5月パクボゴムNEWS

今秋公開予定の映画「夢遊桃源図」でパクボゴムが演じた安平大君「その衝撃的な最後とは?」

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みなさま こんばんは~ 今日の〆記事ですww

で、今日はちょっと「変わりダネのお話」なのだけど…^^;

今秋公開予定の映画「夢遊桃源図」で
パクボゴムが演じた「安平大君、その衝撃的な最後とは?」

映画公開が近いせいか(?)
最近、徐々に「安平大君(あんぴょんてぐん)」の話が増えてる気がするのだけど…

今日は、最近見かけて「ものすごく衝撃」だった
実在人物「安平大君」の話をご紹介しますネ。(;^ω^)

※ネタバレになるかもしれない
+実話なんだけど 悲しい話なので 気になる方は ご注意ください(^^;)

実在の安平大君、その衝撃的な結末とは?「朝鮮王朝実録」

ボゴミ&キムナムギル兄さん主演の映画「夢遊桃源図」。
実在するふたりの王子に関する映画なのだけど… (;・∀・)

「夢遊桃源図」👍昨年10月にクランクイン、今年1月にクランクアップした映画。今秋公開予定。
時代は、李氏朝鮮時代。世宗大王の息子 首陽大君(キムナムギル)と、安平大君(パクボゴム)のふたりの兄弟を巡る話を描く映画です。
詳細は過去投稿で>>2025.10.19 投稿ボゴペン必見!パクボゴムが出演確定した「夢遊桃源図」、期待するしかない6つの理由とは?

 

で! 実は昨日、海外ペンさんのSNSで
実在の安平大君に関する「ええええ!」となった投稿あり
まずは その内容からご紹介します。

海外ペンさん発「安平大君と首陽大君、夢遊桃源図を見るのはつらそうだ」

※以下、最近、韓国のユーチューバーさんが投稿した、安平大君の解説動画を見て
その内容をダイジェストで投稿された 和訳です。

安平(あんぴょん)大君と首陽(すやん)大君、
そしてあの「夢遊桃源図」の映像を見るの、
本当に辛すぎるだろうね😭

安平大君の孫娘の名前は「無心(무심/ムシム)」だった。
“心がない”“執着がない”という意味。

もしかすると、感情を持たない人間でなければ
耐えられなかったのかもしれない。

かつて王女と呼ばれていた子どもが、
自分の父を殺した男たちの家で
下働きとして生きることになったその人生を。

※安平大君が賜薬で処刑された後、安平の息子もすぐ処刑されました😢

安平大君の処刑からちょうど7日後、陰暦10月25日。
首陽大君は、安平大君の邸宅に保管されていた絵画を
すべて集めるよう命じた。

魏晋時代から元代に至るまで、
東アジア数百年の芸術を集めた188点の名品。

だが首陽は、それらを一度も広げて確認しようとすらしなかった。
ただ「奇怪で危険な作品だ」と決めつけ、
そのまま焼き払うよう命じた。

炎は絹を呑み込み、古代の名画は
一枚ずつ灰となっていった。

燃える墨と布の匂いが
漢陽の空へ立ちのぼる中、
ひとりの人間が生涯をかけて集めた
数世紀分の芸術の精髄が、たった一日で煙となって消えた。

だが首陽は、それでも止まらなかった。

安平大君の筆跡をもとに作られた金属活字
「庚午字(キョンホジャ)」の破壊まで命じた。

その書体は、かつて明の皇帝自身が称賛したほどだったが、
活字一式はすべて溶かされた。

活字に欠陥があったからではない。

首陽はただ、安平大君の筆跡が
この世のどこかに残っていることに耐えられなかったのだ。

彼は人を殺し、絵を焼き、書を溶かした。
それでもなお足りなかった。

最後の一撃は王室の系譜そのものに加えられた。

「安平大君」という名前は王族記録から完全に抹消された。

まるで世宗にそんな息子など、
最初から存在しなかったかのように、
公式の歴史そのものが書き換えられた。

それは死より重い罰だった。

墓すら存在しなかった。

逆賊の烙印を押されたため、
遺体は正式に収容も埋葬もされなかった。

喬桐島で毒を飲まされたその男の遺体が
どこへ消えたのか、誰も知らなかった。

同時代のもう一つの悲劇
―朝鮮王朝の端宗と比べると、安平大君の運命の苛烈さは際立つ。

端宗には、少なくとも墓が残った。

忠臣が密かに遺体を収容して葬り、
さらに数世紀後、粛宗が端宗の王位を回復し、
正式な廟号まで与えた。

だが安平大君には何も残らなかった。

墓もない。
遺体もない。

そばで忠誠を貫いた臣下の記憶もない。
王族としての称号もない。
収集品もない。

活字もない。
書もない。

すべて消えた。

安平大君が持っていたものは、火によってすべて焼き尽くされた。
ただ一つを除いて。

188点の絵画は灰となり、
金属活字は溶かされ、匪懈堂(ピヘダン)の書画帖も煙の中へ消えた。

だが、ただ一作品だけが炎から逃れた。

《夢遊桃源図》。

安堅(あんぎょん)が、
安平大君の夢をもとにわずか3日で描き上げた絵。

生き延びたのは、安平大君の「夢」だけだった。
その夢だけが火を越え、海を渡って残った。

安平大君の死からおよそ300年後。
英祖23年、ようやく彼は正式に名誉回復され、
「章昭(チャンソ)」という諡号を与えられた。

つまり、三世紀を経て
ようやく再び朝鮮王家の一員として認められたのだ。

首陽が本当に恐れていたのは、安平大君の剣ではなかった。

そもそも安平大君は、剣によって生きた人ではなかった。

首陽が本当に恐れていたのは、
安平大君の筆だった。

その審美眼、その知性、
そして人々を自然と惹きつけてしまう不思議な力だったのだ。

投稿元リンク先はこちら

 

賜薬で処刑されてしまうのは 知ってたけど…
その後の話は 初耳系で ドビックリ… Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

孫娘が奴婢にされるとか 衝撃的すぎて……(大ショック)

映画で そこまでは、描かれないような気がするのだけど…
あまりな出来事で 言葉が出ない Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

今から「涙の海」の 予感しかわかないわ… (´;ω;`)ウッ…

 

で! 俄然 気になった 大元と思われる「解説動画」。
こちらも全部和訳してみたら 「とても詳しい解説」で
すごく参考になったので 続けてご紹介しますネ。

※といいつつ 実話だけど超悲しい話なので 大丈夫な方だけ進んでください(;’∀’)

『夢遊桃源図』の主人公、安平大君の衝撃的な最期 | 朝鮮王朝実録

 

以下 文字起こしからの和訳です。
※すごく長文なので、間に ボゴミ写真をはさんでご紹介します😅

日本語訳:『夢遊桃源図』の主人公、安平大君の衝撃的な最期

一度も剣を握ったことのない男の前に、
毒酒の器が置かれました。その罪状は、なんと25項目。

その中の三つ目には「養母と関係を持った」という、
倫理に背く罪まで含まれていました。

実の兄が実の弟を殺すまでにかかった時間は、
わずか8日。

裁判どころか、
弁明の一言を口にする機会すら与えられませんでした。

遺体は跡形もなく消え、墓も最後まで作られず、
王室の族譜からは、その名前さえ完全に消し去られました。

さらに、彼が生涯愛し集め続けた188点の絵画は、
一枚も広げて見られることなく灰になり、

彼の筆跡をもとに作られた活字までも、
丸ごと溶かされてしまいました。

人を殺しただけでは飽き足らず、
その痕跡までも完全に消し去ったのです。

いったい、一度も剣を振るったことのないこの男が、
どんな罪を犯したというのでしょうか。

なぜ兄は、弟の息遣いの痕跡まで残らぬほど、
残酷に消し去らなければならなかったのでしょう。

これから、その本当の理由をゆっくり紐解いていきます。

世宗大王が即位して、ちょうど一か月が経ったその日。

景福宮の奥深い内殿から、赤子の泣き声が響きました。
昭憲王后・沈氏が三男を産んだのです。

即位からわずか一か月で王子を得た新王に、
宮中は二つ目の吉報に沸き立ちました。

しかし誰一人、この赤子が後に、
朝鮮史上もっとも華やかな始まりと、
もっとも悲惨な最期を同時に持つ運命になるとは
想像もしませんでした。

その子の名は「李瑢(イ・ヨン)」。
後の安平大君、その人です。

※偶然にも、雲月でボゴミが演じた世子様と同じ名前です😅※

李瑢(イ・ヨン)には、上に二人の兄がいました。
長兄・香は後に文宗となり、
一歳違いの次兄・瑜は、
首陽大君として育っていきました。

その下にも大君は五人いましたが、
人々の口にもっとも多く上ったのは、いつもこの三兄弟でした。

ところが李瑢には、幼い頃から特別な事情がありました。
彼が四歳になった年、
世宗の実弟・誠寧大君が子を残さず早逝したのです。

王室はすぐに幼い李瑢を、
誠寧大君の養子として入籍させました。

四歳の子どもに、
その決定の重みが分かるはずもありません。

ただ、この養子入りによって
二つのことが彼に降りかかりました。

一つは、誠寧大君家の莫大な財産が
幼い李瑢へ流れ込んだこと。

もう一つは、後に養母までもが
悲劇の渦へ巻き込まれることでした。

年の近い兄弟は、誰よりも近い存在である一方、
誰よりも激しくぶつかり合う関係でもあります。

一歳違いの首陽大君と安平大君も、まさにそうでした。

ただし、二人が向かった方向は最初から正反対でした。

首陽は弓を握れば訓練場の真ん中を狙い、
馬に乗れば誰よりも速く駆けようとしました。

決断は早く、声は大きく、人前でも少しも臆さない。
幼い頃から武人の気質が際立っていました。

一方の安平は、筆を持つと時間を忘れました。
一枚の絵の前に、半日じっと座り込んでいることもあったのです。

体格は兄に劣らぬほど逞しかったものの、
その大きな手で、剣よりも筆を選びました。

安平は決して弱い男ではありませんでした。

豪放な気質で武士たちを従え、
鷹狩りを楽しむこともできたのです。

武人としての道も十分歩める器でしたが、
剣より筆を愛したから、筆を取った。

この選択こそが
「安平」という人物の本当の出発点でした。

世宗は、この三男を特別に可愛がりました。
学問と芸術を愛した王の目には、
詩文や絵に夢中になる幼い息子が、
誰よりも愛おしく映ったのでしょう。

もしかすると、自分にもっとも似た血筋だと感じていたのかもしれません。

安平が11歳になった年、
大君に封じられると宮殿を出て、仁王山のふもとに別邸を与えられました。

その家の名を、世宗が自ら授けます。

「匪懈堂(ピヘダン)」
――“怠けぬ家”という意味でした。

「安平」という名には“安らか”という意味があるため、
安逸に流れぬようにという父の願いが、
その三文字に込められていたのです。

幼い安平は、父が書いてくれた文字を胸に抱き、
仁王山の老松を眺めながら、
自らの邸へ戻っていきました。

この「匪懈堂」という名は、
後に朝鮮でもっとも美しい書が生まれる部屋の名となり、
もっとも優れた詩が詠まれる亭の名となりました。

そして最後には、
灰の山となる家の名にもなってしまったのです。

安平の書は、
ただ「上手い」というレベルではありませんでした。

高麗末期、元(げん)から
「松雪体」という書体が伝わってきました。

柔らかさの中に強い骨格を持ち
「王の書体」と呼ばれた字体です。

朝鮮の文人たちは皆こぞって学ぼうとしました。

しかし、その真髄を完全に身につけたのは、
朝鮮広しといえど、安平ただ一人だったのです。

当時の人々は、安平の書を「天下第一」と呼びました。

「朝鮮一」ではなく、「天下第一」。

明の使臣が漢陽へ来るたび、
安平大君のもとへ駆けつけ、書を一枚求めました。

その書を見た明の皇帝は、
「朝鮮に、どうしてこのような字を書く者がいるのか」
と感嘆したといいます。

一人の男の筆先から生まれた文字が、
明の宮殿深くにまで届いたのです。

安平は、書だけに秀でていたのでしょうか。

詩・書・画、その三つすべてが絶頂に達しているとして、
人々は彼を「詩書画三絶」と呼びました。

さらに伽耶琴(かやぐむ)の腕前まで加わります。

一人の人間の中に、
四つの芸術が丸ごと宿っていたような存在でした。

しかし安平の本当の偉大さは、
自分の才能ではなく、他人の才能を見抜く眼にありました。

彼は憑かれたように、書画を集めました。

顧愷之から王維、蘇東坡、李公麟、趙孟頫、郭熙に至るまで――
東アジア美術史を彩る名作が、
一人の手へ集まっていったのです。

小さな断片一つでも
誰かが持っていると聞けば、
惜しみない値を払って手に入れました。

そうして集めた作品は、実に188点。

数百年にわたる東アジア美術の精髄が
仁王山のふもとの匪懈堂に積み重なっていました。

しかし安平は、その宝物を独り占めにはしませんでした。

匪懈堂には、いつも人が集まっていたのです。

何百年も前の名画が掛け軸となって掛けられ、
机の上には法帖が広げられている。

その部屋自体が、一つの巨大な美術館でした。

その周りには、成三問、朴彭年、申叔舟、
李塏、徐居正、崔恒、金守温、李賢老ら、
当代最高の若き才能たちが座っていました。

日が暮れると灯をともして詩を書き、
足が疲れれば裏庭へ出て杯を傾けました。

安平が伽耶琴を奏でると、
学士たちはその旋律に合わせて詩を詠み
囲碁盤を挟んで、夜を明かしました。

そこは、身分の壁が崩れる場所だったのです。

王子と学士、高官と若き文人たちが
一堂に会し、肩書きを超えた友となりました。

『匪懈堂四十八詠』という連作詩は、
八人の学士がそれぞれ48編ずつ、
計384編の詩を共に作り上げた巨大な文学プロジェクトでした。

朝鮮前期文化の心臓が、
まさに仁王山のふもとのその屋敷で鼓動していたわけです。

安平のそばには、
もう一人――安堅(アンギョン)という人物がいました。

図画署の画員出身でありながら、
正四品にまで上り詰めた 並外れた才能の持ち主でした。

安平は、自分が集めた188点の名品を、
安堅に惜しみなく見せました。

顧愷之の線描、郭熙の山水、馬遠の構図――。

それらを共に眺めながら、
安堅は自らの画風を磨き上げていったのです。

普通の画員なら、
一生かかっても目にできない本物ばかりでした。

二人の縁は、やがて一幅の絵として
爆発することになります。

世宗29年。ある夜、安平はその日、
ひどく早く眠りにつきました。

そして夢を見たのです。

親しい友・朴彭年と山道を歩いているうちに道に迷い、
渓谷沿いを登っていくと、
突然視界がぱっと開けました。

数千本もの桃の木が、
谷の両側に果てしなく続いていたのです。

その桃林を抜け、さらに進むと、
いくつもの峰に囲まれた広々とした場所に、
仙人が住んでいそうな古びた家が一軒建っていました。

そこで彼は、もう一人の友・崔恒と申叔舟に出会います。

目を覚ました安平の胸は高鳴っていました。
あまりにも鮮明な夢だったのです。

安平はすぐに安堅を呼び、
自分が見た風景を最初から最後まで語りました。

険しい岩山から始まり、
次第に開けていく桃の花の景色まで――

頭の中の情景を、
一つ一つ移し替えるように説明したのです。

安堅はその場で、頭の中に絵を描き始めました。

そして、たった三日で
一幅の絵を完成させ、安平の前に広げたのです。

安平は、その絵の前でしばらく言葉を失いました。
自分の夢が、絹の上でさらに鮮やかに生きていたからです。

安平は絵の冒頭に、
自らの筆で夢の由来を書き添えました。

その作品の名が――
『夢遊桃源図(몽유도원도)』。

“夢の中で桃源郷を歩いた絵”という意味でした。

安平はこの巻物を抱え、
友人たちの家を一軒一軒訪ね歩きました。

鄭麟趾、金宗瑞、李賢老といった重臣から、
成三問、朴彭年、申叔舟、李塏、徐居正ら若き学士まで、
合わせて22人が賛詩を書き添えました。

安平の書、安堅の絵、そして22人の詩。

それらすべてが一本の巻物に収められたその作品は、
朝鮮前期を丸ごと象徴する宝となったのです。

しかし誰一人、この巻物に名を連ねた人々の半分が、
後に互いへ刃を向け合うことになるとは想像もしませんでした。

共に詩を作り、共に酒を酌み交わしたその手が、
片方は剣を、
もう片方は毒酒の器を持つ運命だったのです。

それから4年後。
安平は、夢の中で見た景色に似た場所を見つけ出します。

白岳山西北の峰々が屏風のように連なり、
澄んだ渓流が流れるその地に、

安平は草庵を一棟建てました。

その名は「武溪精舎(ムゲジョンサ)」でした。

この武溪精舎にも、彼はまた学士たちを呼び集めました。

詩を作り、舟遊びをし、
音楽を添えて酒を酌み交わす集まりが絶えませんでした。

そうして『武溪水唱詩』という、
また新たな連作が生まれます。

朝鮮の文化が、仁王山と白岳山の間を
行き来しながら熟していったわけです。

ところが風水師たちが、この土地について一言漏らしました。

「万代にわたって王が栄える地だ」
「そんな土地に安平が屋敷を建てた。その胸の内は何なのだ?」

この何気ない一言が、
後に安平の首を締める縄になるとは、彼自身も知りませんでした。

そして、安平の芸術世界を語るうえで
欠かせないものが、もう一つあります。

文宗が即位した頃、
新しい金属活字を作る計画が持ち上がりました。

活字を鋳造するには、元となる筆跡
―つまり「字本」が必要です。

「朝鮮最高の名筆は誰か?」

その問いへの答えは、一つしかありませんでした。

安平大君。

彼の書をもとに鋳造された活字こそが――
「庚午字(キョンオジャ)」でした。

この活字で刷られた本が、
朝鮮前期の知識を載せて四方へ広がっていきました。

一人の筆跡が、国全体の知識インフラになったわけです。

安平には、鄭氏という妻がいました。
左議政・鄭淵の娘で、安平が12歳の時に婚姻した相手でした。

ところが、この夫婦仲はよくありませんでした。

安平が妻を冷遇し、互いに顔すら見ない年月が、
7年から8年も続いていたのです。

豪放で浪漫的な夫の裏側には、
確かに放蕩な一面がありました。

側室も一人や二人ではありませんでした。
鄭氏が感情をあらわにすると、
安平はむしろ「七去之悪※」を持ち出して威圧しました。

🌟「七去之悪(칠거지악)」は、
朝鮮や中国の儒教社会で使われた、“夫が妻を追い出せる七つの理由” のこと。
内容は①子どもを産めない ②淫らである ③舅姑(夫の親)に従わない
④嫉妬深い ⑤病気がある ⑥おしゃべり・口が軽い ⑦盗みをする

 

華やかな王子の夫人という立場の裏には、
夫に顧みられなかった一人の女性の孤独があったのです。

妻・鄭氏は、政変が起きる五か月前、
孤独の中で息を引き取りました。
安平は葬儀にも姿を見せませんでした。

もしかすると鄭氏にとっては、
夫が連行され殺される姿を見ずに済んだことが、
最後の救いだったのかもしれません。

世宗が崩御し、
世子・珦が王位に就いて文宗となりました。

文宗は父王と母后を追慕する大規模な仏事を行いました。
この事業の総責任を首陽と安平が共に担いましたが、
実質的な重心は安平の側へ傾いていました。

安平のそばには、李賢老という人物がいました。
科挙に三等で合格した士大夫で、
風水にも通じた有能な官僚でした。

太宗の献陵を整備し、世宗の英陵を造営する一連の事業に、
李賢老は深く関わり、安平がそれを主管しました。

首陽には権擥と韓明澮がいて、安平には李賢老がいました。
しかし、二つの陣営の性格はまったく違っていました。

権擥と韓明澮が権力を設計する策士だったなら、
李賢老は風水と学問に明るい実務官僚でした。

一方は剣を研ぎ、もう一方は筆を握っていたのです。

さらに恐ろしいのは、
剣を研ぐ側が相手のすべての動きを監視していたにもかかわらず、
筆を握る側は、自分が監視されていることにすら
気づいていなかったという点でした。

文宗は、在位わずか2年で倒れます。

12歳の幼い王、端宗が即位しました。

この瞬間から、
朝鮮の権力地図は根底から揺らぎ始めます。

文宗は死の前に、
金宗瑞(キムジョンソ)と皇甫仁(ファンボイン)へ幼い息子を託しました。

これを「顧命」と呼びます。
二人の重臣は、幼い王を支えました。

しかし時が経つにつれ、その“支え”は
越権へと傾いていきました。

人事推薦を行う際、
本来は候補者三人を上げ、王が選ぶのが原則でした。

「三望」という制度です。

ところが金宗瑞と皇甫仁は、
候補者を一人だけ上げ、そこに黄色い印をつけて送りました。

これを「黄標政事」と呼びます。

12歳の王に対して、
事実上「この人物にしなさい」と通告したようなものでした。
この不満が、後に人々が首陽側へ流れ込む決定的な口実となります。

こうした状況の中で、
安平の立場は微妙になっていきます。

朝廷で最も力を持つ人物は金宗瑞であり、
その金宗瑞に最も近い王室宗親(王の血縁者)が、まさに安平でした。

安平にしてみれば、幼い甥をよく補佐するために、
顧命大臣たちと手を組むのは自然な流れでした。

しかし、遠くからその姿を見ていた首陽の目には、
まったく違って映りました。

「あの二人が手を組んだ」

「金宗瑞の軍事力に、
安平の王室としての権威が加われば、自分は終わりだ」

これが首陽の判断でした。

首陽は安平の周辺に人を潜り込ませ、動線を監視しました。

金宗瑞が誰と会い、安平がどこへ行くのかを、
細かく把握していたのです。

当の安平は、自分がどれほど危うい場所に立っているのか、
まったく分かっていませんでした。

首陽の私邸では、まったく別種の集まりが毎夜開かれていました。

その中心にいたのが、韓明澮(ハン・ミョンフェ)でした。

韓明澮は科挙に何度も落ち、
蔭叙※によってようやく末端の職を得た、冴えない士大夫でした。

🌟蔭叙(음서/ウンソ)」は、
簡単にいうと “親の功績や家柄によって官職をもらえる制度” のこと。
科挙みたいな試験を受けなくても、特別に役職につける制度

 

しかしこの人物には、人を見抜く目と、
盤面を組み立てる頭がありました。
権擥(クォン・ラム)が彼を首陽に紹介し、
首陽はすべての計画を韓明澮に任せました。

韓明澮の最初の仕事は、
剣を使える者たちを集めることでした。

洪達孫、楊汀、柳洙ら武人数十名を、
首陽のもとへ引き寄せました。

安平のそばに学士と詩人が集まるあいだ、
首陽のそばには武士と策士が集まっていたのです。

そこへ、決定的な取り込みがもう一つありました。

それが申叔舟(シン・スクチュ)でした。

『匪懈堂四十八詠』を共に作り
『夢遊桃源図』に最も長い賛詩を書き、
安平の所蔵品目録を確認する文章まで丁寧に整理してくれた、
あの申叔舟が、首陽側へ寝返ったのです。

鄭麟趾(チョン・インジ)も首陽側へ移りました。

安平は才能ある人を集め、首陽は不満を持つ人を集めました。

韓明澮には挫折感が、
権擥には怒りと野心が、
申叔舟には
老臣たちの越権に対する不満がくすぶっていました。

そして不満は、剣よりもはるかに鋭い武器でした。

1453年、陰暦10月10日。
朝鮮の歴史が丸ごとひっくり返った日です。

午後から空は曇り、
首陽の私邸では朝から秘密の動きが始まっていました。

韓明澮が最後の確認をしていました。

武人30人余りが武器を整え、最後の命令を待っていました。

日が暮れると、首陽が動きました。
首陽側が最初に処理した人物の一人が、李賢老でした。

安平の耳であり目であった彼は、
その夜を越えることができませんでした。

首陽が本当に恐れていたものが何だったのか、
この一点から分かります。

それは金宗瑞の軍事力ではありませんでした。
それは、安平の情報網だったのです。

李賢老が生きていれば、安平へ情報が届く。
情報さえ届けば、対処する時間が生まれるからです。

その後、首陽は自ら金宗瑞の家へ向かいました。

その夜、首陽の武士たちは
鉄槌で金宗瑞を打ち据えました。

朝鮮の巨木が倒れたのです。

皇甫仁も拘束され、朝廷の二本柱が、
たった一夜で崩れ落ちました。

都全体が恐怖に包まれました。

武装した兵士たちが街を埋め尽くし、
悲鳴と剣戟の音が夜空を裂きました。

その夜、匪懈堂で詩を作っていた学士たちは、
どこにいたのでしょうか。

申叔舟はすでに首陽のそばで、政変の成功を見届けていました。

朴彭年と成三問は、その夜からさらに3年生き延び、
後に端宗復位を図った
「死六臣」の一人として処刑されます。

同じ灯の下で、
同じ杯を交わしていた人々が、そうして分かれていったのです。

昨日まで友だった者が、今日の敵になったのでした。

首陽の配下たちが最初に踏み込んだ場所は、
武溪精舎でした。

しかし安平は、そこにはいませんでした。

兵士たちは一晩中都を捜索しましたが、
行方はつかめませんでした。

その時、安平は養母の家にいたのです。

安平は四歳の頃から、
養母である誠寧大君夫人・昌寧成氏を実母のように慕っていました。

その日も養母の家で一日を終え、
眠りについていたのです。

翌朝になってようやく、
首陽の兵士たちがその家の門前へ押しかけました。

首陽は幼い端宗のもとへ駆け込み、
「金宗瑞と皇甫仁が、安平を王位に就けようとしていた」と訴えました。

12歳の王には、何もできませんでした。

安平は江華島へ流刑となり、
その後まもなく喬桐島へ移されました。

四方を海に囲まれ、逃げ場のない場所でした。

そして陰暦10月18日。
政変から、わずか8日後のことでした。

毒酒が下されたのです。

わずか8日。
裁判も、弁明もなく、
兄が弟を殺すまでにかかった時間でした。

首陽には、安平の潔白を確かめる理由など、
最初からなかったのです。

安平は、存在しているだけで脅威だったのですから。

35歳の安平は、
喬桐島の冷たい海風の中で、毒酒の器を受け取りました。

最後の瞬間、彼が何を思ったのか、
誰にも分かりません。

ただ、父・世宗が幼い彼に授けた
「匪懈堂」という三文字が、
最後によぎったのかもしれません。

「怠けるな。絶えず己を磨け。」

安平は、生涯その言葉どおりに生きました。

あまりにも熱心に、
美しいものを集めすぎたことが、
罪になってしまっただけでした。

しかし、ここで終わってくれればよかったのですが、
本当に残酷だったのは、死後からでした。

長男・宜春君 李義直は、
江華島から珍島へ移された後、そこで賜死となりました。

父より遠い地で、父より若い年齢で殺されたのです。

その妻(安平の息子の妻)の宜寧南氏は
五代にわたり左議政を輩出した名門・南智の娘であり、
領議政・南在の曾孫という名家の令嬢でした。

その女性は、どうなったのでしょうか。

権擥の奴婢になりました。
――あの、首陽に韓明澮を紹介した張本人です。

政変を企てた中心参謀の家へ、
安平の嫁(息子の妻)が、
奴婢として連れて行かれたのです。

さらに残酷な事実がもう一つ。
権擥の嫁と、安平の嫁は、
同じ南氏一族の親族関係でした。

同じ南氏家門の女性二人が、
一つの家で、
片方は嫁として、
もう片方は奴婢として生きることになったのです。

そして、その娘の名は「無心(ムシム)」。
(安平大君から見ると孫娘)
“心がない”という意味です。

あの子には、
本当に心がなければ、耐えられない人生だったのでしょう。

昨日まで「お嬢様」と呼ばれていた王族の血筋が、
父を殺した者の参謀の家で、
奴婢として呼びつけられるようになったのですから。

養母である誠寧大君夫人・昌寧成氏も、
慶州へ流されました。

数年後に赦免はされたものの、
本家へ戻ることはできず、実家で寂しく生涯を終えました。

安平の側室たちは官婢となり、
一族は一瞬で引き裂かれたのです。

しかし首陽は、
人を殺すだけでは満足しませんでした。

安平が賜死となって、ちょうど7日後。

陰暦10月25日、
首陽は安平の家と李賢老の家にある絵画を
すべて持って来るよう命じました。

魏晋南北朝から元代に至るまで、
数百年にわたる東アジア美術の精髄188点。

首陽は、一枚たりとも広げて見ませんでした。
ただ「怪しげな書や作品だ」と決めつけ、命じたのです。

「すべて焼き払え。」

炎が絹を呑み込み始めました。

何百年も受け継がれてきた名画が、
一点また一点と灰へ変わっていきました。

墨と絹が焼ける匂いが、
漢陽の空へ立ち上っていきました。

一人の人間が生涯を捧げて集めた東アジア美術の精髄が、
たった一日で一握りの煙となって消えたのです。

首陽は、絵だけを燃やしたのではありませんでした。

安平の筆跡をもとに作られた
「庚午字」活字まで、
丸ごと溶かしてしまったのです。

明の皇帝を感嘆させたその書を刻んだ活字を、
作られて間もないにもかかわらず、
すべて溶かしたのでした。

活字の状態が悪かったからではありません。

安平の字が、
どこかに残っていること自体が嫌だったのです。

人を殺し、絵を焼き、文字まで溶かしました。

それでも足りなかったのか、
最後の一手がまだ残っていました。

『璿源系譜』
――王室の族譜から「安平大君」という名が完全に消されたのです。

世宗の息子の中に
“安平”という人物が存在した事実そのものが
公式記録から消されたのでした。

死よりも重い刑罰でした。

墓すらありませんでした。

逆賊として死んだため、
遺体を収容することもできなかったのです。

喬桐島で毒酒を飲んだ彼の遺体が、
どこへ行ったのか知る者さえいませんでした。

剣は人を斬ります。

しかし首陽の処分は、
一人の存在そのものを丸ごと消し去る行為でした。

同じ時代のもう一つの悲劇、
端宗と比べてみても、
安平の境遇がどれほど苛酷だったか、一目で分かります。

端宗には、それでも莊陵という墓が残りました。

厳興道という忠臣が、
密かに遺体を収め埋葬したからです。

「死六臣」という忠節の象徴も、
端宗とともに記憶されました。

そして後に粛宗が端宗を復位させ、
廟号まで与えました。

しかし安平には、何一つ残りませんでした。

墓も、遺体も、忠臣も、廟号も、所蔵品も、活字も――。

書も、すべて消し去られました。

太宗でさえ、第二次王子の乱の時、異母兄弟たちまでは殺しませんでした。

「兄弟の血は流さない」という最低限の線は守ったのです。

しかし首陽は、同腹の弟・安平を殺し、
後には錦城大君まで死に追いやりました。

同腹の兄弟を二人も殺したことになるのです。

 

ところが、ここで奇跡のような出来事が起こります。

安平が持っていたものはすべて焼かれたのに、
ただ一つだけ生き残ったのです。

188点の名品は灰となり、
活字は溶かされ、
匪懈堂の法帖も煙となって散りました。

しかし、たった一作
――『夢遊桃源図』だけは、火を逃れたのです。

安平が夢で見た桃源郷を、
安堅が三日で描き上げた、あの絵でした。

当代最高の22人が賛詩を書き添えた、
その巻物が、
どうやって首陽の手から逃れたのかは分かっていません。

ただ、誰かの手を経て、密かに隠されたのです。

そして約150年後、壬辰倭乱が起こりました。

🌟壬辰倭乱(임진왜란)」は、日本でいう「文禄・慶長の役」。
豊臣秀吉 が明(中国)へ攻め込む通路として朝鮮に侵攻した戦争のこと。

 

戦乱の混乱の中で
『夢遊桃源図』は海を渡って流れていきました。

安平の“夢”だけが、
炎を逃れ、海を越えて生き残ったのです。

※現在、日本の天理大学付属天理図書館に所蔵されています※

安平が世を去ってから、
およそ300年後――英祖23年。

ようやく安平大君は正式に復権され
「昭悼」という諡号を贈られました。

300年ぶりに、
朝鮮王室の一員として再び認められたわけです。

しかし、復権されたからといって、
失われたものが戻ってくるわけではありませんでした。

188点の傑作は永遠に消え、
「庚午字」活字も跡形なく、
法帖や書画も、とっくに灰となっていました。

墓も最後まで作ることができず、
祭壇だけが建てられました。

首陽が恐れていたのは、安平の剣ではありませんでした。

安平は生涯、一度も剣を取ったことがなかったのですから。

首陽が本当に恐れていたのは、
安平の筆であり、美を見抜く眼であり、
そして人々が自然と彼のもとへ集まってしまう、
その力でした。

だから、人だけを殺したのではなかったのです。

絵を焼き、活字を溶かし、文字を消しました。
人を斬るだけでは、
安平の世界を消すことはできないと考えたのでしょう。

けれど、美しいものは最後まで完全には死にませんでした。

剣は人を斬れても、夢までは斬れません。

炎は絹を焼けても、
その絹に込められた夢までは焼き尽くせません。

安平大君・李瑢。
35歳で世を去った彼が残した、たった一つの夢が、
過酷な歳月を越え、最後まで生き残ったのです。

(おわり)

 

なんでしょう…この 悲惨すぎる実話は… (思わず倒れた)

 

知れば知るほど 首陽大君が 大嫌いになるんですけども…(;^ω^)
それはともかく…
これを 映画では どう描くのか…?? 今から 興味津々です…

(映画を見るときは、間違いなく ハンカチ持参👍ww)

ということで 以上 全和訳でした<(_ _)>

 

ではでは今日はこのへんで。ここまでご覧くださりありがとうございましたww

あんにょん~ ぴょん!

 

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